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フランス絶対王政を象徴するヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ宮殿は、パリから西に約20km離れたイヴリーヌ県ヴェルサイユにある旧王宮。17世紀のフランス・バロック建築の最高傑作の一つで、ルイ14世、ルイ15世、ルイ16世が居を構えた場所である。
1623年、ルイ13世が狩猟場だったこの地に寝泊まりするための小屋を建てたのが始まり。1631年から1634年にかけて建築家フィリベール・ル・ロワが狩猟小屋を小さな城に改築した。
ルイ14世は、ニコラ・フーケ大蔵卿のヴォー=ル=ヴィコント城を気に入り、それを手掛けた建築家ルイ・ル・ヴォーと画家シャルル・ル・ブラン、造園家アンドレ・ル・ノートルにヴェルサイユの改築を依頼した。
ルイ13世の建てたレンガと石造りの城を残す形で工事は進められ、コの字型の旧城を北、西、南側から取り囲むように増築していった。
1970年に建築家ル・ヴォーが亡くなると後任にジュール・アルドゥアン・マンサールが任命された。マンサールは宮殿の西側、庭園に面した位置にあったテラスを取り壊し、ヴェルサイユで最も有名な鏡の回廊に改築、北側に王の大居室、南側に王妃の寝室を建てた。
その後も、王室家族が宿泊するための棟、貴族たちが宿泊するための棟、大トリアノン宮殿、厩舎、オランジェリー(温室)など、次々と増改築を繰り返してきたが、1710年に建てられた王室礼拝堂がルイ14世治世下での最後の建築物となった。
宮殿の西側の広大な敷地に広がる庭園は、造園家アンドレ・ル・ノートルが設計、1661年の着工から約40年かけて作られた。中央を通る主軸に対して左右対称になるように小道、花壇、生け垣、噴水、彫刻など配置され、規則的で開放的なこの庭園は、フランス式庭園の典型としてヨーロッパ中に広まった。
ルイ14世は、自らを「太陽王」と呼び、「すべては私を中心に回っている」と言った。彼は宮殿と庭園を東西の軸に沿って建設し、太陽が自分を中心に、東から昇り、西に沈むようにした。ルイ14世は、豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿を建てることによってフランス国王の力を内外に知らしめることに成功した。
ルイ15世の時代には小トリアノン宮殿と王室オペラ座が建てられ、ルイ16世の時代は主に宮殿内部の改築が行われていたが資金不足によって進まなかった。
1789年、フランス革命が勃発し改造計画は終焉を迎えることとなる。
王がいなくなると宮殿は閉鎖され、宮殿にあった絵画や彫刻はルーヴルに移された。
ナポレオン1世の時代は、1810年から1814年まで夏の離宮として利用され、1870年から1871年にかけては、普仏戦争に勝利したドイツ軍に占拠された。
1979年、世界遺産登録基準(ⅰ)(ⅱ)(ⅵ)が認められ、文化遺産に登録された。
王の大居室
王の大居室は、7つの部屋(ヘラクレス、ディアナ、豊穣、ヴィーナス、マース、マーキュリー、アポロン)で構成されており、太陽がルイ14世のシンボルであるため、各部屋に惑星とそれに関連するローマの神々の名前が付けられ、当時国王が好んだイタリア風の豪華な装飾で部屋が飾られている。これらの部屋は、もともとは王の住居として使用されていたが、国王の公式行事を行うための部屋として用途を変更した。
ヘラクレスの間は、1682年から1710年まで礼拝堂だった2階層部分を使用している。1664年にヴェネツィア共和国からルイ14世に贈られたパオロ・ヴェロネーゼの2枚の絵画「パリサイ人シモン家の食事」と「エレアザルとレベカ」を展示するために、建築家ロベール・ド・コットのもと改築が行われた。
天井の絵は、フランソワ・ルモワーヌ作、ヘラクレスが12の偉業を成し遂げ、神の仲間入りをする場面を描いた「ヘラクレスの神格化」が飾られている。この部屋はルイ15世の時代には舞踏会が開かれていた。
豊穣の間は、1682年にジュール・アルドゥアン・マンサールの指揮のもと建てられた部屋で、ルイ14世の貴重なコレクションが保管されていた。また、晩餐会が開かれた時に軽食を取るための部屋でもあった。
天井にはルネ=アントワーヌ・ウアスが描いた「豊穣と自由」が飾られ、壁にはジャン=バティスト・ヴァン・ロー作のルイ15世の肖像画、イアサント・リゴー作のルイ・ド・フランス(ルイ14世の長男)、ブルゴーニュ公ルイ(ルイ14世の孫)、スペイン王フェリペ5世の肖像画が飾られている。
ヴィーナスの間は、晩餐会でフルーツや菓子などの軽食を提供するために使用された。
天井画はルネ=アントワーヌ・ウアス作の「神々と強大国を帝国に従わせるヴィーナス」が、アーチ部分にはアレクサンドロスやローマ皇帝アウグストゥスなど古代の偉人や英雄が描かれている。南側の壁の中央にローマ皇帝に扮したルイ14世の像が置かれている。
ディアナの間は、ルイ14世がビリヤード場として使用。ビリヤードが得意だったルイ14世が見事なショットをするたびに拍手が沸き起こり「拍手の間」とも呼ばれた。
天井の中央には、太陽神アポロンの妹で狩猟と月の女神ディアナが航海と狩猟を見守る構図で描かれている。
マースの間は、1782年まで衛兵の控室として使用され、ヘルメットやトロフィーなど軍隊をテーマとした装飾が施された。天井の中央にはクロード・オードランが描いた「狼に牽かれる戦車に乗ったマルス」が飾られている。
昼間は宮廷の人々や一般の見学者が自由に通れる通路として利用されていた。当時の見学者のために、王室の持つ絵画や彫刻を説明する案内書まで印刷されていた。
1684年から1750年まで音楽家のためのギャラリーが設置されコンサート会場となった。
マーキュリーの間は、もともとは王の寝室だった場所。この部屋には本来銀製品がたくさん飾られていたが、大同盟戦争の資金調達のためにすべて溶かされてしまった。
天井には、ジャン・バティスト・ド・シャンパーニュの2羽の雄鶏に牽かれた戦車に乗ったマーキュリーと、アリストテレスやアレキサンダー、アウグストゥスなど古代の人物像が描かれている。
アポロンの間は、1682年に宮廷がパリからヴェルサイユに移ると玉座の間となり、王はここで定期的に謁見していた。
1689年までは彫刻と銀板で飾られた高さ2.6mの玉座がペルシャ絨毯が敷かれた台の上に置かれていたが、これも大同盟戦争の資金を捻出するために溶かされてしまった。
天井画はシャルル・ド・ラ・フォッセの作品で4頭の馬に牽かれた戦車に乗ったアポロンとそれを取り囲む季節を表す神であるフローラ、ケレース、バッカス、サターンが描かれている。
鏡の回廊
宮殿の中で最も有名な部屋である鏡の回廊は、建築家ルイ・ル・ヴォーが設計したテラスがあった場所に建てられた。
王の居室と王妃の居室を結ぶテラスは雨風にさらされて不便だったため建て替えることになった。ルイ・ル・ヴォーの後任のジュール・アルドゥマン・マンサールが、モンテスパン公爵夫人のために建てられたクラニー城のギャラリー(1769年に解体)や、トゥールーズ伯邸の黄金の間(現フランス銀行)、サン・クルー城(1870年に破壊)をモデルに設計をし、1678年から1684年にかけて建設された。
回廊の長さは73m、幅10.5mで、17の窓に面した17のアーケードにそれぞれ21枚ずつ、合計357枚の鏡がはめこまれていて、当時は貴重で高価だった鏡を大量に使用することで、フランスの高い技術力と富を証明する事ができた。
シャルル・ル・ブランが描いた天井画は30点あり、ルイ14世の治世、1661年からナイメーヘンの和約が結ばれた1679年まで18年の歴史を表している。主にオランダ戦争のエピソードが年代順に描かれ、中央の大きな絵はルイ14世が快楽や遊戯から目を背け、王冠を見つめている姿が描かれている。
鏡の回廊は一般市民や貴族たちが王に謁見したり、意見を伝えることができる場であり、外国から来る使節団に豪華絢爛な回廊を見せて、フランスの富と強さを誇示するための政治的な道具でもあった。
1919年6月28日、第一次世界大戦を終結させるヴェルサイユ条約が調印されたのもこの場所である。
王室礼拝堂
王室礼拝堂は、宮殿に建てられた5つ目の礼拝堂で、建築家ジュール・アルドゥマン・マンサールがゴシック様式とバロック様式が融合した建築設計をし、1689年に着工するが、大同盟戦争(1688〜1697)の間は工事が中断された。1699年に工事は再開されるが、マンサールは完成の2年前に亡くなり、工事は義兄弟のロベール・ド・コットに引き継がれ、1710年に完成した。
天井にはアントワーヌ・コワペルの描いた「世界の贖罪の約束をもたらす栄光の中の神」とシャルル・ド・ラ・フォスの「キリストの復活」、ジャン・ジュヴネの「聖霊降臨」が飾られている。
宮廷では毎日朝10時にミサが行われ、王とその家族は2階のトリビューンから、宮廷の女性たちは1階の側廊、官吏や一般市民は身廊から参列した。
礼拝堂では、王室の行事が行われ、1770年5月16日、ルイ16世とマリー・アントワネットはここで結婚式を挙げた。
オペラ座
王室オペラ座は、1685年にルイ14世の命により北翼の端に建てられる予定だったが、1688年に始まった大同盟戦争のために国費が逼迫し建築計画は頓挫した。
ルイ15世の時代に計画が復活。1765年に建築家アンジュ=ジャック・ガブリエルの設計で着工。内装はオーギュスタン・パジューが担当し、彫刻やレリーフを加えて1770年に完成した。経済的な理由からほぼ全館木造でできており、大理石に見える所も塗装によるもの。天井にはルイ・ジャン・ジャック・デュラモーが描いた芸術の神アポロンと女神たちが飾られている。
庭園
ヴェルサイユの庭園は、造園家アンドレ・ル・ノートルによって作られた古典的なフランス式庭園で造成されている。もともと草原と沼地だった所を壮大な庭園を造成するため完成までに40年以上もの歳月を要した。財務総監ジャン=バティスト・コルベールがプロジェクト管理を行い、彫刻や噴水の設計はシャルル・ル・ブランが担当、そしてルイ14世自ら細部まで確認し、気に入らない所はその都度修正し、みんなで協力して作り上げた庭園である。
庭園内には、372体の彫像、600の噴水、全長1500mを超える大運河、ルイ14世の隠れ家大トリアノン宮殿やルイ15世がポンパドゥール夫人のために建てた小トリアノン宮殿、マリー・アントワネットが過ごした王妃の村里などがあり、約800ヘクタールの土地に様々な要素が詰まっている。
ルイ14世は、ヴェルサイユの庭園を最も効果的に紹介するために散歩道の順路や立ち止まって見るべき場所などが記された世界初となるガイドブック「王の庭園鑑賞法」を発行した。
ラトナの泉
ラトナの泉は、1668年から1670年にかけてアンドレ・ル・ノートルの設計をもとに、彫刻家ガスパール・マルシーとバルタザール・マルシーによって制作され、1686年にジュール・アルドゥマン・マンサールによって改修された。
噴水の最上段にラトナ神、その周りにはマルシー兄弟が制作した半人半蛙の像が6体と、彫刻家クロード・ベルタンが制作した金色のカエルや亀、トカゲが後から追加された。
ラトナの泉のモデルは詩人オウィディウスの「変身物語」の中で語られているラトナ神の逸話からきている。ラトナ(レト)はユピテル(ゼウス)との間に太陽神アポロンと月の女神ディアナをもうけた(ユピテルの浮気……)。事実を知ったユピテルの妻ユーノー(ヘラ)は激怒し、人間に対し、ラトナとその子供たちを迫害するよう命じた。
ラトナはユーノーから逃れるために地上をさまよい、遠くの国リュキアにたどり着いた。そこでのどが渇いたラトナは池の水を飲もうとしたが、住民たちはユーノーの命令に従い、池の中に入り池の底の泥を蹴り上げ、水を飲ませないようにした。
彼らの仕打ちに激怒したラトナはユピテルに助けを求め、ユピテルは罰としてリュキアの住民たちをトカゲやカエルの姿に変えた、という話に由来する。
アポロンの泉
アポロンの泉は、1668年から1671年にかけて、シャルル・ル・ブランのデッサンをもとに彫刻家ジャン=バティスト・テュビが制作したもの。ギリシャ神話の太陽神アポロンが4頭立ての戦車で水面から現れる姿が表現されている。
大トリアノン宮殿
大トリアノン宮殿は、ルイ14世が宮廷の喧騒から逃れ、信頼の置ける仲間たちと軽い食事を取れる隠れ家として建てられた。大トリアノンに招待されることは廷臣たちにとっては特権であり名誉だった。
もともとは1670年から1672年にかけて建築家ルイ・ル・ヴォーの設計で建てられた白と青の磁器製のタイルで装飾された建物があったが、磁器の劣化が激しく1686年に取り壊された。
1687年から1688年にかけて、ジュール・アルドゥマン・マンサールの設計によりイタリア建築の影響を受けたピンク色の大理石を使った宮殿に建て替えられた。
第一帝政期には、ナポレオン・ボナパルトが2番目の妻マリー・ルイーズと過ごし、1963年、シャルル・ド・ゴール大統領は宮殿を海外の要人を迎えるために使用した。
小トリアノン宮殿
小トリアノン宮殿は、ルイ15世が愛人だったポンパドゥール夫人のために建築を依頼。建築家アンジュ=ジャック・ガブリエルの設計で1762年から1768年にかけて建設された。
しかしポンパドゥール夫人は完成する4年前に亡くなってしまい、小トリアノンは彼女の後継者であるデュ・バリー夫人が使用することとなった。1774年、ルイ16世は宮殿とその周辺の土地をマリー・アントワネットに与え、彼女だけが使用し楽しめるようにした。
マリー・アントワネットは宮廷の生活や王妃としての重責から逃れるために小トリアノンを訪れ安らぎの時を過ごした。王妃の許可なく敷地に入ることは許されず、ランバル公妃やポリニャック公爵夫人など王妃の側近のみが招かれた。ルイ16世でさえも許可が必要だったと言われている。
建物は後期ロココ様式と新古典主義が混在し、フランス式庭園に面した南側は華やかに、植物園に面した北側はシンプルに装飾を変えている。
王妃の村里
王妃の村里は、マリー・アントワネットが宮廷の華やかな生活から逃れるために建てられた素朴な外観を持つ家屋が建ち並ぶ農村である。
王妃のお気に入りの建築家リシャール・ミックが画家ユベール・ロベールの絵画をモチーフに設計し、1783年から1786年にかけてノルマンディー地方の田舎を思わせる村里が作られた。
住所:Place d'Armes, 78000 Versailles, France
開館時間:9:00〜18:30(4月〜10月)、9:00〜17:30(11月〜3月)
休館日:月曜日、1月1日、5月1日、12月25日
入場料:20ユーロ(18歳未満は10ユーロ)、27ユーロ(噴水ショーを含む)
URL:https://en.chateauversailles.fr/
ヴェルサイユ宮殿と庭園の登録基準
登録基準(ⅰ)
ヴェルサイユ宮殿と庭園は、その規模だけでなく、その品質と独創性のおかげで、他に類を見ない芸術的成果を果たしている。
登録基準(ⅱ)
17世紀末から18世紀末にかけて、ヴェルサイユ宮殿はヨーロッパ全土に大きな影響を及ぼした。クリストファー・レンはハンプトン・コート宮殿に、アンドレアス・シュリューターはベルリン王宮に、それぞれ王宮のファサードを設計する際にヴェルサイユ宮殿を想起させるものを取り入れた。
ミュンヘンにあるニンフェンブルク宮殿、シュライスハイム城、カールスルーエ城、ヴュルツブルク司教宮殿、サンスーシ宮殿、ドロットニングホルム宮殿など「リトル・ヴェルサイユ」が各地に誕生した。
ル・ノートルの庭園も、英国のウィンザー、ドイツ、カッセルにあるヴィルヘルムスヘーエ城公園、スペインにあるラ・グランハ・デ・サン・イルデフォンソ宮殿、デンマークのフレデリクスボー城、ロシアのペテルゴフ宮殿など、建築家自身によって、あるいは彼の模倣によって数え切れないほど設計されている。
登録基準(ⅵ)
君主の絶対的な権力の座であるヴェルサイユは、1世紀半の間、フランスの宮廷生活(ルイ14世が完成させた「エチケット」)と音楽、演劇、装飾芸術の分野における芸術の創造にとって最も適した場所であり、芸術が集まる坩堝となった。
また、王立アカデミーの創始者である国王によって奨励され、数多くの科学的発見がここでなされた。1789年10月6日、民衆がルイ16世とマリー・アントワネットを連れ去り、権力の中心が再びパリに移り、ヴェルサイユは終りを迎えた。
ヴェルサイユまでのアクセス方法
日本からパリまでは、エール・フランス、日本航空、全日空が直行便を運行している。所要時間は12時間40分。
パリからヴェルサイユまではRERのC線かSNCFの電車で1時間弱で到着できる。
ヴェルサイユ宮殿周辺のホテル情報
ヴェルサイユのホテル料金は10,000〜40,000円くらい。
パリまで1時間弱なので、パリ泊でもいい。
・ル ホーム サン ルイ
・ホテル ドュ シュヴァル ルージュ
・ノボテル シャトー ド ヴェルサイユ
・ウォルドーフ アストリア ベルサイユ - トリアノン パレス
ヴェルサイユまでの旅の予算
ツアー代金は、5〜8日間で150,000〜400,000円くらい。
個人旅行の場合
往復航空券
直行便:羽田→シャルル・ド・ゴール空港(14時間55分)/エール・フランス
=310,000円
乗継便:羽田→シャルル・ド・ゴール空港(18時間35分)/ ターキッシュ・エアラインズ
210,000円
宿泊代
4泊:10,000✕4=40,000円
現地ツアー代金
・ベルサイユ宮殿 半日ツアー(62EUR〜)
合計260,000〜(参考価格)