2000年を超える歴史を持つパリの中心地-パリのセーヌ河岸
「パリのセーヌ河岸」は、セーヌ川に架かるイエナ橋(エッフェル塔の北西に位置)からシュリー橋(サン・ルイ島東端)までの約8kmを登録範囲とする世界遺産である。1991年、世界遺産登録基準(ⅰ)(ⅱ)(ⅳ)が認められ、文化遺産に登録された。
パリの歴史は、ケルト民族のパリシイ族が紀元前250年頃にセーヌ川河岸に定住したことに始まる。パリシイ族はこの地に橋や要塞を建設し、沿岸にある他の集落と貿易をしていたという。
紀元前51年にユリウス・カエサルがガリア戦争で、この地を征服し、「Lutetia Parisiorum(ルーテシア・パリシオルム)」と呼んだ。以降、パリはセーヌ川沿岸を中心にローマ都市としてローマを模して再建され、広場や円形闘技場、公衆浴場などが作られ、その遺跡は現在も残っている。
19世紀、パリの中心部は日当たりも風通しも悪く、道路の溝には動物の糞や汚物であふれ、それがセーヌ川に流れ、川も汚染されるなど、パリの衛生、生活環境は劣悪であった。
ナポレオン3世の命を受け、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンは、それらを改善するべく17年の歳月をかけてパリ市街改造計画を推進した。
中心部にあった古い建物や入り組んだ路地裏を取り壊し、街の中心に80kmにも及ぶ大通りを通し、交通網を整えた。また人口密集を避けるため、パリの西部にブローニュの森、東部にヴァンセンヌの森、北部にビュット・ショーモン公園、南部にモンスリ公園と4つの大きな公園と、その他にも市民が公園に行くのに徒歩10分以上かからないように多くの公園が作られた。その他にも、水道橋、巨大貯水池、下水道などを作り、衛生、給水、交通の便を改善し、フランスの近代化に大きく貢献した。この都市計画は西欧諸国の都市計画のモデルとなった。
登録物件
セーヌ川右岸
マレ地区
マレ地区は17世紀にフランス王アンリ4世のもと、ロワイヤル広場(現ヴォージュ広場)が作られてから、フランス貴族たちが多く住むようになった。貴族の邸宅は白い石を使い、馬車が通れるような大きな玄関が特徴的です。19世紀のジョルジュ・オスマンによるパリ改造計画の影響は受けず、今も17世紀に建てられた豪華な邸宅が建ち並び、その多くは現在美術館として利用されており、ピカソ美術館やカルナヴァレ美術館、ビクトル・ユゴー記念館、コニャック=ジェイ美術館、狩猟自然博物館などが有名。
今のマレ地区はユダヤ人や中国人が多く住み、また1980年代からLGBT文化が根付きはじめ、LGBTに優しいバーやクラブ、レストランがオープンし、盛り上がりを見せている。
パリ市庁舎
パリ市庁舎(Hotel de Ville)は、セーヌ川右岸、パリ4区にあるネオ・ルネサンス様式の建物。
1357年、当時のパリ市長エティエンヌ・マルセルが「柱の家」と呼ばれていた建物を所有して以来、600年以上市庁舎はここにずっと存在している。
フランス王フランソワ1世がフランスの首都にふさわしい市庁舎にするべく新しい市庁舎の建設が始まった。右翼は1535年から1551年までフランソワ1世によって建設され、左翼は1605年から1628年にかけてアンリ4世とルイ13世の統治下に建設された。1871年5月にパリ・コミューンによって、それまで保管していた公文書とともに焼失した。
1874年から1882年にかけて外観は元の設計に基づき再建された。ファサードには、芸術家や、学者、政治家、産業家など、パリの著名な人物の像が飾られ、ヴェルサイユ宮殿の鏡の回廊を模して作られた祝宴の間はガイドツアーで見学することができる(2022年現在、個別ツアーは停止中)。長さ110m、幅85m、高さ48mのこの建物は、ヨーロッパ最大の市庁舎である。
かつて「グレーヴ広場(Place de la Greve)」と呼ばれていた市庁舎前の広場では、重罪人の処刑が行われていた。アンリ4世を刺殺したフランソワ・ラヴァイヤックやルイ15世の暗殺未遂犯ロベール=フランソワ・ダミアン、異端者とされた神学者マルグリット・ポレートなどがここで処刑されている。1792年、初めてギロチンが使用されたのもこの地である。
暗い歴史のある広場ですが、現在は巨大スクリーンを設置してサッカーワールドカップやラグビーワールドカップを観戦したり、夏にはコンサートを開催、冬にはスケートリンクが設置されるなど広く利用され、市民の憩いの場となっている。
住所:Place de L'Hotel de Ville 75004 Paris
開館時間:8:00〜19:30
休館日:土曜日、日曜日
入場料:無料
※定期的に開催される展覧会やガイドツアー参加以外の入場は基本不可
ルーヴル美術館
ルーヴル宮殿は、パリ1区、セーヌ川右岸にある、かつて王宮だった建物です。現在はルーヴル美術館として、世界中から多くの観光客が訪れる場所となっている。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」や、ミケランジェロの「ダビデ像」、「ミロのヴィーナス」、「サモトラケのニケ」など歴史に名を残す名作を含む約48万点の美術品が収蔵されている。
ルーヴル美術館の前身となるルーヴル宮殿は、1190年、フィリップ2世の命により、パリを取り囲む城壁の西側を守る城塞として建設されたのが始まり。現在は美術館の地下に遺構として残っている。
シャルル5世の時代に、パリの人口増加により、フィリップ2世が建てた城壁のさらに外側に新たな城壁が出来たため、軍事的価値を失ったルーヴル城は1364年から1380年にかけて工事が行われた。多数の窓、彫像、庭園などを加え、快適に暮らせるように改装された。
また、王家の図書館が設置され、このコレクションは数世紀を経てフランス国立図書館に収蔵されることになる。
1546年、フランソワ1世は、シャルル5世が改装した宮殿を解体し、ルネサンス様式で再建するよう命じた。フランソワ1世の死によって一時中断したが、息子のアンリ2世がこれを引き継ぎ再建した。この改修によって華やかな装飾が施され、現在の美しい宮殿となった。
アンリ2世が馬上槍試合で事故死すると、未亡人となったカトリーヌ・ド・メディシスは、ルーヴルに次ぐ2つ目の住居としてチュイルリー宮殿の建設(1871年焼失)。
アンリ4世の時代、1595年から1607年にかけてセーヌ川沿いに長さ460m、幅13mのルーヴル宮殿とチュイルリー宮殿を結ぶ回廊を建設した。ルイ13世とルイ14世は宮殿の拡張を続け、クール・カレ(中庭)の建設もした。その後、ルイ14世が王宮をルーヴルからヴェルサイユに移したため、ルーヴルの工事はナポレオン1世の時代まで、ほとんど行われることはなかった。
1802年、ルーヴル美術館はナポレオン美術館に改称(1814年、ナポレオン失脚後名前はもとに戻された)。ナポレオン1世は宮殿の北側に新たな回廊を増築、ナポレオン3世も引き続き工事を行い、2つの翼を加えて壮大なルーヴル美術館の完成に至った。
1989年にガラスのピラミッドが完成し現在の姿となっている。
住所:Rue de Rivoli, 75001, Paris, France
開館時間:9:00〜18:00
休館日:火曜日
入場料:15ユーロ(オンライン:17ユーロ)
※ミュージアムパス利用可能(ただし公式サイトにて入場日時予約必須)
URL:https://www.louvre.fr/en
カルーゼルの凱旋門
カルーゼル凱旋門は、1805年、ロシア・オーストリア連合軍と戦った「アウステルリッツの戦い」に勝利したことを祝して1806年から1808年にかけてフランスの建築家シャルル・ペリシエとフランソワ・レオナルド・フォンテーヌによって建設された。ローマにあるセプティミウス・セウェルスの凱旋門をモデルに設計されている。
場所はチュイルリー庭園とルーヴル美術館の間、カルーゼル広場にある。皇帝が住むチュイルリー宮殿への記念碑的入り口として作られた。
「カルーゼル」とは軍事馬場馬術を意味する言葉で、ルイ14世がここで馬場馬術を観覧したことからカルーゼル広場と名付けられた。
高さは19m、幅23m、奥行7.3m、中央のアーチの高さは6m、両隣の小さいアーチの高さは4m。赤と白で出来たコリント式円柱が8本あり、その柱の上にはそれぞれ帝国の兵士が1体ずつ置かれている。壁面には遠征中におきた出来事を描いたレリーフ、門の頂上にはクアドリガ(4頭の馬が横並びで引く戦車)と2体の勝利の女神「ウィクトーリア」が置かれている。
レリーフには次の出来事が描かれている。
・ウルムの降伏
・アウステルリッツの戦い
・ミュンヘンに入るナポレオン
・ウィーンに入るナポレオン
・プレスブルグの和平
・ティルジットの和平
門の上には、当初はヴェネチアのサン・マルコ寺院から持ち出された有名な「サン・マルコの馬」が置かれていたが、1815年、ナポレオン1世がワーテルローの戦いに敗れセントヘレナ島に幽閉されると、「サン・マルコの馬」はヴェネチアに返還された。
1928年に彫刻家のフランソワ・ジョゼフ・ボジオが複製品を作り置きかえられた。
住所:Place du Carrousel 75001 Paris, France
コンコルド広場
コンコルド広場は、パリ8区、シャンゼリゼ大通りとチュイルリー庭園の間に位置し、面積は7.6ヘクタールもあり、ボルドーのカンコンス広場に次いで、フランスで2番目に大きい広場である。
フランスの建築家アンジュ=ジャック・ガブリエルが設計し、1755年から1772年にかけて建築された。最初は「ルイ15世広場」と名付けられ、広場の中央には深刻な病に苦しんでいたルイ15世の回復を祝して作られた騎馬像が置かれていた。
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1789年に、フランス革命の中心的な場所となり、1792年、王政廃止が宣言された翌日にルイ15世の像は取り壊され、彫刻家フランソワ・フレデリック・レモットが作った自由を象徴するフリジア帽をかぶり槍を持った人物の像に置きかえられ、「革命広場」と呼ばれるようになった。
広場にギロチンが設置され、1793年1月21日にルイ16世が処刑される。その後マリー・アントワネット、ダントン、ロベスピエールなども処刑された。
フランス革命の6年間で、ギロチンによって処刑された2,498件のうち、革命広場では、1,119件の刑が執行された(その他、バスティーユ広場で73人、ナシオン広場で1,306人)。
1795年、コンコルド広場に改名。その後1814年、復古王政のあと「ルイ15世広場」になり、1826年にはシャルル10世が亡き兄に敬意を払い「ルイ16世広場」となり、1830年、再び「コンコルド広場」となった。
フランス革命中にあった恐怖政治や政変を経て、総裁政府のもと和解の証として調和を意味する「コンコルド」と名付けられた。
ルイ・フィリップ1世とセーヌ県知事ランビュトーの命により、コンコルド広場の再建が始まった。1832年建築家ジャック・イニャス・イトルフが主任建築家に任命され、1836年から1840年にかけて最後の大改造が行われた。
広場の角にはジェームス・プラディエやジャン=ピエール・コルトーなど著名な彫刻家が制作したフランスの都市を象徴する8つの彫像が置かれている(北西にブレストとルーアン、北東にリールとストラスブール、南東にリヨンとマルセイユ、南西にボルドーとナント)。
1831年、エジプト総督ムハンマド・アリーからエジプト考古学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンの象形文字解明に対する感謝の印として贈られたテーベのルクソール神殿のオベリスクは、1836年10月25日に広場の中央に設置された。
オベリスクを挟んで、北側にはフランスの大河を表す「Fontaine des Fleuves(川の噴水)」と南側にはフランスに接する海を表す「Fontaine des Mers(海の噴水)」の2つの噴水があり、ローマのナヴォーナ広場の噴水とバチカンのサン・ピエトロ広場にある噴水をモデルに制作された。
住所:Place de la Concorde 75008, Paris, France
マドレーヌ寺院
マドレーヌ寺院は、パリ8区、コンコルド広場からロワイヤル通りを通って北側400mの位置にあるカトリック教会。
13世紀以来、現在のマルゼルブ通りの起点に位置するこの場所には、サント・マリー・マドレーヌ教会という礼拝堂があった。
18世紀、地区の人口が増加し新しい建物が必要になり、1764年、ルイ15世の命により、教会を建て直すことになった。
建築家ピエール・コンタン・ディヴリーが設計を担当。小さなドームを頂点とするラテン十字型の教会を提案し採用された。
基礎工事が行われていた1777年に建築家が亡くなり、弟子のギヨーム・クチュールが引き継ぎ、当初の設計を全面的に見直した。彼はジャック・ジェルメン・スフロが設計した聖ジュネヴィエーヴ教会(現在のパンテオン)をヒントにギリシャ十字型の上に大きなドーム、ポーチ、コリント式円柱で取り囲む設計に変更した。
フランス革命の時代、この時期に教会の建設をするべきではないとして、国民議会は1791年から1804年にかけて、政令でマドレーヌ寺院の建設を中止させた。
1806年、ナポレオン1世の命により、フランス軍の栄光を称える寺院を建設することになった。
新しい建築家に任命されたピエール・アレクサンドル・ヴィニョンは、ギリシャ・ローマ建築にヒントを得て、アテネにある神殿の外観に似た円柱の列に囲まれた神殿を設計した。
その後、工事は急速に進んだが、1811年に資金不足のため中止された。ロシア遠征後、ナポレオンは神殿の建設を断念した。
1814年、第一帝政崩壊により再び工事は中断されるが、ブルボン復古王政の時代、ルイ18世はこの建造物をマグダラのマリアに捧げる教会にすることに決定した。
1828年にヴィニョンが亡くなり、1830年ジャック・マリー・ユーヴェがその後を任され、カラカラ浴場とローマのパンテオンをモデルにその工事と内装を引き継いだ。
中断と再開を繰り返し、約80年の歳月をかけて1842年にようやく教会は完成した。
長さ108m、幅43m、高さ30m、高さ20mのコリント式円柱52本で囲われており、教会建築としては珍しく十字架も鐘楼も持たず、トランセプト(翼廊)もなく長方形の形をしている。
古代ギリシャの神殿を思わせる新古典主義様式のファサードが印象的で、正面入口の大きなブロンズの扉はトリケッティ男爵が作製。モーセの十戒を表現している。また正面のペディメントは彫刻家アンリ・ルメールによる「最後の審判」を表したレリーフが飾られている。
教会内部は古代ローマの建築を思わせる作りになっており、ステンドガラスの代わりに大理石や黄金の装飾で飾られている。ローマのパンテオンをモデルにした天井ドームが3つあり、そこから光が差し込み、幻想的な雰囲気を醸し出している。
祭壇中央にはシャルル・マロチェッティが作った「聖マグダラのマリアの歓喜」の像があり、マグダラのマリアの昇天を表している。
そしてその彫刻の上部にある天井画はジュール・クロード・ジーグラーが描いたフレスコ画「キリスト教の歴史と栄光」があり、階段の頂点にはマグダラのマリアに許しを与えるキリスト、昇天したマグダラのマリア、その周辺には弟子たち。下段には、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世やフランク王国初代国王クローヴィス1世、神聖ローマ帝国初代皇帝カール大帝、ジャンヌ・ダルク、ダンテ、ラファエロ。そして下段中央には赤いマントを羽織ったナポレオン1世とナポレオン1世に王冠を手渡すローマ教皇ピウス7世など、フランスの歴史に名を残す王や聖職者などが描かれている。
彫刻と天井画の間にあるモザイク画は、中央に復活したキリスト、左でひざまずいているのはマグダラのマリアで、マリアの足元にはマリアのアトリビュートである香油壺が置かれ、その周りには弟子たちが描かれている。
※アトリビュート・・・その人物を表す特徴的な持ち物。マグダラのマリアのアトリビュートは香油壺と頭蓋骨。
1846年、アリスティド・カヴァイエ=コルによって制作されたオルガンが設置された。
現在も毎日ミサが行われ、年間を通じて、クラシック音楽のコンサートが開催されている。
現在、マドレーヌ寺院は修復中で2023年6月に完成予定。
住所:Place de la Madeleine, 14, rue de Surene 75008 Paris, France
開館時間:9:30〜19:00
入場料:無料
シャンゼリゼ大通り
シャンゼリゼ通りは、パリ8区、コンコルド広場からシャルル・ド・ゴール広場まで約2km、幅70mの道のりが続く「世界で最も美しい大通り」として知られ、通り沿いには高級ブランドや、レストラン、有名ショップのフラッグシップ店、クラブなどが建ち並び、毎日多くの観光客を集めている。
「シャンゼリゼ」とは、ギリシャ神話に登場する「エリュシオンの野」という意味で、神々や死んだ英雄たちの魂が集まる楽園のこと。
シャンゼリゼ通りのあった土地は、もともと湿地帯で、人が住むような場所ではなかった。1667年、ルイ14世は、造園家のアンドレ・ル・ノートルにサン・ジェルマン・アン・レーと改築中のヴェルサイユ宮殿へ通ずる道を整備するよう命じた。
ル・ノートルはチュイルリー宮殿の中心を軸に、現在のコンコルド広場から現在のシャンゼリゼ・マルセル・ダッソー・ロータリーまで、ニレの木が並ぶ美しい通りを整備した。この通りはグラン・クール(Grand Cours)と呼ばれるようになり、シャンゼリゼ通りになったのは、1694年だと言われている。1724年、エトワール広場(現シャルル・ド・ゴール広場)まで延長され、現在の長さとなった。
1834年、ジャック・イニャス・イトルフがコンコルド広場と並行してジャンぜリゼ通りの整備を依頼された。イトルフは英国式庭園やカフェ、レストラン、コンサートホール、サーカス、劇場の建設、ガス灯の設置などを進め、シャンゼリゼ通りの発展に大いに貢献した。
現在、シャンゼリゼ通りでは、多くのイベントが行われる。毎年7月14日の革命記念日には軍事パレードが行われ、パリ・マラソンのスタート地点であり、ツール・ド・フランスのゴール地点でもある。
住所:Avenue des Champs-Elysées 75008 Paris, France
グラン・パレ
グラン・パレは、パリ8区、シャンゼリゼ通りとセーヌ川の間、ウィンストン・チャーチル通りに面している。
1900年に開催されたパリ万国博覧会のために建設された建物で、1975年に身廊部分のみ、2000年に建物全体が歴史的建造物に指定された。
身廊、グラン・パレ国立美術館、科学博物館「発見の殿堂」の3つの主要スポットから構成されており、長さ240m、高さ45m、床面積13,500m2の身廊はヨーロッパ最大のガラスの屋根を持ち、身廊の建設にはエッフェル塔よりも多い6,000トンもの鉄を使用している。
1896年、フランス人の建築家のみを対象にグラン・パレの建築家を決めるコンペが開催された。議論を重ねても1人の案に絞ることが出来ず、アンリ・ドグラーヌ、アルベール・ルーヴェ、アルベール・トマ、シャルル・ジローの4人の建築家による共同プロジェクトとなった。
メイン・ファサードとイオニア式円柱が立ち並ぶペリスタイル、身廊はアンリ・ドグラーヌが担当、2階にあるサロン・ドヌールと階段はアルベール・ルーヴェが担当、現在の発見の殿堂がある西翼をアルベール・トマが担当、プロジェクト全体の調整と通りを挟んで向かい側に建設予定のプチ・パレの設計をシャルル・ジローが担当することとなった。石造りのファサード、ガラスの丸天井、鉄骨と軽量鉄骨による構造、鉄筋コンクリートの使用など、当時としては斬新な技術が用いられていた。
1897年、建設が始まり、1900年の万国博覧会の開幕に間に合うよう最大1500人が24時間体制で工事は進められた。仕上げの装飾は建築家が選んだ40人の現代美術家が担当し、彫刻やモザイクなど最後の飾りを施し、1900年、グラン・パレは無事完成した。
現在、身廊はファッションショーや自動車ショー、馬術競技大会、アートフェア、見本市などが毎年40ほどイベントを開催、グラン・パレ国立美術館では、ピカソやルノワール、ゴーギャンなど歴史に名を残す芸術形の美術展が開催される。
科学博物館「発見の殿堂」では、常設展と企画展を通して、子供たちが楽しみながら学べる施設となっている。
住所:3 Av. du Général Eisenhower, 75008 Paris, France
※2020年から2023年までリニューアル工事のため、現在は休業中。
プティ・パレ
プチ・パレは隣のグラン・パレと同じく1900年のパリ万国博覧会のためにウィンストン・チャーチル通りに建設された。
建築家シャルル・ジローの設計によるこの建物は、半円形の中庭を取り囲む4つの棟から構成されている。
1902年に、パリ市の豊富な美術コレクションを収蔵する美術館となった。
常設展は8つのカテゴリーに分かれていて、古代、中世、ルネサンス、17世紀、18世紀、19世紀、20世紀の絵画、彫刻、装飾品を年代順に展示、残り1区画にはキリスト教のイコンを展示している。
住所:Av. Winston Churchill, 75008 Paris, France
開館時間:10:00〜18:00(木曜日は20:00まで)
休館日:月曜日
入場料:常設展は無料
シャイヨー宮
シャイヨー宮は、パリ16区、トロカデロ広場とトロカデロ庭園の中間に位置し、1937年のパリ万国博覧会のために建てられた建物で、新古典主義建築の2つの棟から構成されている。
1583年、アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスがこの地を買い取り、シャイヨー城を建設したことに始まる。1651年、アンリ2世の娘であり、イングランド王チャールズ1世の王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスが城を買い取り、女子修道院を設立。1789年、フランス革命が勃発すると、修道院は放棄され、1794年、セーヌ川の対岸にあったグルネル城で起こった爆発事故に巻き込まれ建物は崩壊した。1811年、ナポレオン1世は、生まれてくる息子のためにローマ王宮殿を建設。
1878年、万国博覧会のためにトロカデロ宮が建てられた。もともとコンサートホールとして建てられた建物で、収容人数5000人の円形ホールと2つの翼と2つの塔で構成され、「トロカデロの戦い」にちなんで、トロカデロ宮と呼ばれた。
1937年、再び万国博覧会が開催されることになったとき、トロカデロ宮を壊して、新しい建物を作ることになった。よりモダンな様式で設計されたが、骨組みの1部と大きく弧を描いた2つの翼の構成はそのまま引き継がれた。
現在、シャイヨー宮は、シテ建築遺産博物館と国立海軍博物館、人類博物館、シャイヨー国立劇場の4つの施設が入っている。
住所:1 Place du Trocadéro et du 11 Novembre, 75016 Paris, France
セーヌ川左岸
オルセー美術館
オルセー美術館は、パリ7区、セーヌ川左岸にある国立美術館で、1900年のパリ万国博覧会のために建てられた駅舎を、改築し美術館として利用している。
1848年から1914年までの西洋絵画や彫刻、装飾美術、写真、建築物などのコレクションを収蔵。印象派の絵画では世界最大のコレクションを有し、エドゥアール・マネ、クールベ、ゴッホ、ルノワールなど作品を数多く展示している。
もともとこの地には、1810年にナポレオン1世の命で外務省庁舎としてオルセー宮が建てられた(ただし外務省庁舎として使われることはなく、1840年から国務院と1842年から監査員が置かれていた)。
1871年、パリ・コミューンで放火され焼失した後、30年間放置され廃墟と化していたが、オルセー宮の跡地をパリ・オルレアン鉄道(フランス国鉄の前身である鉄道会社のひとつ)が買い取り、1900年に開催される万国博覧会を見越して、それまでパリ中心地から遠かったパリ〜オルレアン間の終着駅を新しくオルセー宮跡に建設した。
建築家ヴィクトル・ラルーによって設計され、長さ130m、幅40m、高さ32mのドーム状の屋根で覆われ、370室の客室を持つホテルが併設された。しかし、鉄道輸送技術の発達により、長大な長距離列車を収容することができなくなり、1939年に駅としての歴史に幕を閉じた。
第2次世界対戦中はドイツ軍の司令部が置かれ、戦後は捕虜受け入れ施設となり、1960年代は映画撮影や劇場として利用された。
1977年、当時の大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンの発案でコレクションを収蔵する美術館として改築することが決まった。
次の大統領フランソワ・ミッテランの時代、1983年から改築工事が行われ1986年に完成した。
「オルセー」とはオルセー通りの名前の由来と同じく、フランス行政官だったオルセー公シャルル・ブーシェの名前にちなんでつけられた。
住所:1 rue de la Légion d'Honneur 75007 Paris, France
開館時間:9:30〜18:00(木曜日のみ9:30〜21:45)
休館日:月曜日
入場料:10〜16ユーロ
ブルボン宮殿
ブルボン宮殿は、セーヌ川左岸、パリ7区に位置し、国民議会(下院)の議事堂が入っている建物。
もともとはルイ14世とモンテスパン夫人の庶子ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボンのために1722年から1728年にかけてジャルディーニ(Giardini)、ピエール・カイリトー(Pierre Cailleteau)、ジャン・オベール(Jean Aubert)、ジャック・ガブリエル(Jaques V Gabriel)の4人の建築家が引き継ぎながら隣接するラッセイ公邸とともに建設した。
ヴェルサイユ宮殿にある離宮「大トリアノン宮殿」をモデルにし、18世紀には「王宮に次ぐ最も美しい宮殿」と賞賛された。
ブルボン公爵夫人の死後、1756年にルイ15世が宮殿を買い取り、1764年、公爵夫人の孫のコンデ公ルイ5世に売却された。コンデ公爵家は、フランス革命が起きるまでブルボン宮殿を所有していたが、1795年、五百人会が設置され、以降は国民議会の議事堂として使用されるようになった。
1804年、ナポレオン1世は建築家ベルナール・ポイエ(Bernard Poyet)に命じて、セーヌ川側にファサードを追加した。ファサードを飾る三角形のペディメントと円柱のポーチは、コンコルド広場の先に見えるマドレーヌ寺院と対になっているようだ。
1827年から1832年にかけて建築家ジュール・ド・ジョリー(Jules de Joly)の指揮のもと、宮殿の内部を改築、東棟にはドラクロワが装飾を施した図書館が増築され、現在の姿になった。
通常は非公開となっているが、1年に1度、ヨーロッパ文化遺産の日(9月第3週の週末)のみ公開される。
住所:126 Rue de l'Université, 75007 Paris, France
アンヴァリッド
アンヴァリッドは、セーヌ川左岸、パリ7区にある建造物で、1674年、ルイ14世が退役軍人のための建てた廃兵院のこと。
1670年当時は、病気や怪我、老齢、障害のある兵士のための施設は存在しなかったため、それらの人々の多くが乞食や泥棒になり、住民からの苦情が多かった。その解決策としてアンヴァリッドは建設されたと言われている。はじめは兵舎のみが計画されていたが、建築家リベラル・ブリュアンの提案を受け、軍事病院、ホスピス、修道院、工場が併設される複合施設となった。1715年頃には4,000人以上がここで生活をしていたという。
現在も重傷者や身体障害者のための病院やホスピスとして機能を維持している。また、他には陸軍博物館、軍事模型博物館、現代史博物館、ナポレオン1世の墓があるドーム教会などで構成されている。
陸軍博物館では、数多くの武器や軍服、その他軍の道具など50万点に及ぶコレクションを収蔵。12,000m2の展示スペースは7つに分かれており、古代から第2次世界対戦の終わりまでを紹介している。
軍事模型博物館は、1668年から1870年までのフランスの城郭、都市、街の立体模型を約100点展示している。防衛のための砲術の計画を練るために模型はつくられた。
ドーム教会は、正方形のギリシャ十字で、黄金に輝くドームは55万枚の金箔で覆われておりその重さは約126kgもある。エッフェル塔ができるまで高さ107mのドーム教会がパリで一番高い建物だった。
建築家はヴェルサイユ宮殿のガラスの回廊を設計したジュール・アルドゥアン・マンサールが担当。その地下には、1843年にヴィスコンティが設計したナポレオンの墓がある。
棺の周りには12体の勝利の像、円形の回廊には大理石のレリーフがあり、いずれもナポレオン治世のときのエピソードが描かれている。
住所:129 Rue de Grenelle, 75007 Paris, France
開館時間:10:00〜18:00(月〜土)、10:00〜17:00(日曜日、10月〜3月)、10:00〜18:30(4月〜9月)
休館日:第一週月曜日
入場料:9.5ユーロ(18歳未満は無料)
※サン・ルイ教会と中庭は無料
シャン・ド・マルス公園
シャン・ド・マルス公園は、パリ7区にあり、エッフェル塔とエコール・ミリテール(陸軍士官学校)の間に広がる公園で、その広さは24.5ヘクタールもあり、パリで最も大きい緑地のひとつである。
16世紀から18世紀まではぶどう畑と菜園だったが、18世紀には1万人の兵士を収容できる大きさだったため、陸軍の演習場として利用された。
「シャン・ド・マルス」とはローマ神話の軍神マルスに由来。もともと軍隊の演習やパレードのために都市に設けられた広い土地のことを「シャン・ド・マルス」と呼んでいた。
1867年以降、パリ万博では会場として利用され、多くのパビリオンが設置された。
住所:2 allee Adrienne-Lecouvreur 75007 Paris, France
エッフェル塔
エッフェル塔は、パリ7区、セーヌ川左岸、シャン・ド・マルス公園の北西の端にある1889年のパリ万国博覧会のために建てられた高さ330mある錬鉄製の塔です。
当時は「300mの塔」と呼ばれていたが、建設したギュスターヴ・エッフェルにちなんで「エッフェル塔」と呼ばれるようになった。また、地元では「La dame de fer(鉄の女)」の愛称で呼ばれている。
1930年にニューヨークのクライスラービルが建つまでは約40年間世界一高い建物だった(1957年にアンテナを設置したため、現在はエッフェル塔のほうが高い)。
1886年、フランス革命100周年を記念して1889年に開催される万国博覧会に合わせて、「シャン・ド・マルス公園とアンヴァリッド広場の整備計画」という名目のコンペが開催された。
その条件の中に、「シャン・ド・マルス公園に一辺125m、高さ300mの正方形の鉄塔を建てる可能性を検討する」ことが記載されていた。
1886年当時、ギュスターヴ・エッフェルはすでに有名な技術者であり、彼の会社は世界中に鉄橋を建設していることで知られていた。フランスからアメリカに贈られた自由の女神の内部構造を設計したのもエッフェルだ。
彼の会社に勤務していたモーリス・ケクランとエミール・ヌーギエという二人の技術者により、鉄橋の建築技術を応用した高く空に伸びるにつれ細くなっていく塔を設計した。
エッフェルは最初は、二人の案を受け入れなかったが、同社の主任建築家だったステファン・ソーウェルトが外観を美しく整えた設計図を絶賛した。
エッフェルは設計の権利を二人から買い取りコンペに提出。競合相手には、1878年の万国博覧会のために建てられたトロカデロ宮殿を建設したジュール・ボーデがいた。彼はパリの街を明るく照らす「太陽の塔」を提案したが、1886年、107の提案の中から、エッフェルの案が採用された。
しかし、建築にかかる総工費が650万フランだったのに対して、政府が援助できるのは150万フランのみだった。そこで、残りの500万フランを自己調達するかわりに、20年間塔を所有する権利を国から得た。
当時は、洗練されたパリの街に鉄の塔は似合わないとして、芸術家や知識人たちに猛反対され、地域住民からはこんな高い塔はいらないと裁判にまで発展した。
そんな最中、1887年に基礎工事が開始され、約2年2ヶ月後の1889年3月31日に完成した。
万国博覧会が開幕したときにはまだエレベーターが設置されていなかったが、それでも毎日3万人が訪れ、1,710段の階段を登り、頂上からの景色を楽しんだ。
芸術家たちからの批判とは裏腹に、万国博覧会期間中に200万人もの訪問者を集め大成功を収めた。
しかし、1900年の万国博覧会が終了すると、次第に客足は遠のき、1909年に政府に権利が戻るときに解体の危機が訪れるが、それを予期していたギュスターヴ・エッフェルは塔の科学的有用性を証明するため、天文学や気象学など様々な実験を行った。
最終的に塔を救ったのは、最初は軍事的無線通信で、第一次世界大戦中、敵の通信を傍受するのに使用された。その後は無線電信用の電波アンテナとして使用され今日まで残ることとなった。
現在では、毎年600万人以上の訪問客を集めるパリの主要観光スポットのひとつとなっている。
住所:Champ de Mars, 5 Av. Anatole France, 75007 Paris, France
開館時間:9:00〜23:45、9:30〜22:45(5月7日〜6月17日)
休館日:7月14日
入場料:大人10,70ユーロ〜26,80ユーロ
URL:https://www.toureiffel.paris/en
カルチェ・ラタン
カルチェ・ラタンは、セーヌ川左岸に位置するパリの第5区と第6区にある歴史的な地区です。知識人や芸術家の歴史、活気のある夜遊び、学生の街ちすて知られています。
「カルチェ・ラタン(ラテン語地区)」という名前は、中世とルネサンス期に学問と教育の言語であったラテン語に由来しています。この地域には、13世紀に創設され、現在もフランスで最も権威のある大学の一つであるソルボンヌ大学をはじめ、ヨーロッパで最初期の大学のいくつかがありました。
シテ島
ノートル・ダム大聖堂
ノートルダム大聖堂は、パリ4区、シテ島の東端にあるゴシック様式の教会。
フランス語で「ノートル・ダム」とは聖母マリアのことを意味し、この大聖堂は聖母マリアに捧げられ、聖母マリアを守護聖人としている。
1302年、最初の三部会が開かれ、1455年のジャンヌ・ダルクの復権裁判、1804年のナポレオン1世の戴冠式、フランス大統領の葬儀など数々の重要な出来事が行われてきた。
長さ130m、幅48m、天井までの高さ35m、2つの塔の高さは69m。内陣と後陣、翼廊、身廊、側廊で構成されている。バラ窓は西側(直径9.6m)、南側(直径13m)、北側(直径13m)にあり、どれも13世紀の作品だ。
西側ファサードには3つの扉があり、扉の上には、聖母マリア(左)、最後の審判(中央)、聖アンナの彫刻が施されている。
真ん中の門は1210年に制作されたもので、最後の審判の様々な場面を表現している。この彫刻では、2人の天使が死者を蘇らせ、神の裁きを受けさせる様子を表現していて、キリストを囲む2人の天使と聖母マリア、聖ヨハネから構成される。キリストの真下には大天使ミカエルが天秤を手に持ち、死者の罪と徳を量る姿が描かれていて、大天使の左には天国に行ける人、右側は地獄に行く人と悪魔が立っている。
歴史
現在のノートル・ダムの建つ場所には、紀元前50年頃ガロ・ローマ時代、ユピテル(ゼウス)を祀る神殿、4世紀には初期キリスト教の教会堂、6世紀にはメロヴィング朝時代の教会堂、その後、カロリング朝時代に大聖堂、ロマネスク様式の大聖堂が建つなど、神聖な場所として長い歴史があった。
1160年、経済の発展に伴って急増するパリの人口に対して大聖堂が手狭になり、パリ司教モーリス・ド・サリーが新しいゴシック様式の教会を作る計画を立て、1163年、教皇アレクサンデル3世が礎石を置き工事が始まった。2世紀に渡って建設が続けられ1351年に完成した。
17世紀、ルイ14世が王宮をパリからヴェルサイユに移したことによって、大聖堂は整備されなくなり老朽化が進んだ。さらにフランス革命の時代、あらゆる宗教的シンボルを破壊しようとする動きがあり、ノートルダム大聖堂も例にもれず破壊、略奪が繰り返し行われ荒廃した。
特に西側ファサードにある「王の間」の28体の彫刻は、ユダ王国とイスラエル王国の王を表しているが、当時はフランス王を表していると考えられ、1793年に破壊された。
(1977年、個人邸宅の中庭で28体中21体の頭部が偶然発見された。これらは現在クリュニー中世美術館で保管されている。)
フランス革命後、ヴィクトル・ユーゴーの小説「ノートル・ダム・ド・パリ」のおかげで、人々はこの大聖堂の価値を認識するようになり大規模な修復を実施することにつながった。1847年から1864年にかけて、建築家ヴィオレ・ル・デュクを中心に修復が行われた。
2019年、修復の作業中、大聖堂の屋根裏部屋から火災が発生し、屋根の大部分と尖塔、丸天井の一部が焼失した。2024年に修復を終えて一般公開する予定。
住所:6 Parvis Notre-Dame - Pl. Jean-Paul II, 75004 Paris, France
開館時間:臨時休業
入場料:無料(塔:10ユーロ)
URL:https://www.notredamedeparis.fr/
パレ・ド・ジュスティス
パレ・ド・ジュスティスは、パリ1区、シテ島にあり、日本の最高裁判所にあたる破棄院と、日本の高等裁判所にあたる控訴院など司法機関が入っている建物。
以前は、日本の地方裁判所にあたる大審裁判所も入っていたが、2018年、バティニョール地区にできたポンピドゥー・センターの建築で有名なレンゾ・ピアノが設計した高層ビルに移転している。
10世紀から14世紀までフランス国王の居城として使われていたが、王太子シャルル(シャルル5世)が、パリ市長だったエティエンヌ・マルセルの反乱で身の危険を感じ、サン・ポル宮へ居を移し王宮としての役割は終えたが、司法機関だけはそのまま残った。
住所:10 Bd du Palais, 75001 Paris, Paris
開館時間:8:30〜18:30
休館日:土曜日、日曜日
サント・シャペル
サント・シャペルは、パリ1区、シテ島にあるゴシック様式の王室礼拝堂。
1237年頃、ルイ9世(サン・ルイ)は、ラテン帝国皇帝ボードゥアン2世からいばらの冠や磔にされた十字架の断片、その他20点の聖遺物を購入。そしてそれらの聖遺物を収めるため建てられたのがサント・シャペルです。
1242年から1246年にかけて建設された。建築家はサンジェルマン・デ・プレ修道院の礼拝堂やサン・ジェルマン・アン・レー城の礼拝堂を設計したピエール・ド・モントルイユであると考えられていたが、現在、研究者からは否定されている。
長さ36m、幅17m、高さ42.5m,2階建ての礼拝堂は、アーヘン大聖堂のパラティン礼拝堂と類似している。これはルイ9世が、自分は初代神聖ローマ皇帝カール大帝(シャルルマーニュ)の後継者にふさわしい存在であると知らしめるために同じような作りにしたと言われている。
1階は聖母マリアに捧げられた礼拝堂で、宮廷職員が使用していた。現在は、フロアのほとんどが土産物売り場となっている。
2階は聖遺物に捧げられた礼拝堂で、小さな扉で王宮とつながっている。そのため2階は王とその側近のみの入室が許されたエリアだった。
聖遺物は東側後陣部分に設置された祭壇に金と銀で装飾された聖遺物箱に入れられ安置されていた。礼拝堂を取り囲む15枚のステンドグラスには旧約聖書と新約聖書の物語をモチーフに1113の場面が描かれ、柱には12使徒の彫像が設置されている。
西側には15世紀に作られた直径9mのバラ窓があり、ヨハネの黙示録が89枚のガラスで描かれている。光の加減によって色彩が変わり、季節や時間その日の天気によって様々な表情を見せる。
フランス革命時、サント・シャペルは宗教と王室のシンボルとして最初に標的にされた。礼拝堂は穀物倉庫になり、12使徒の彫像は破壊され、外壁の彫刻や王家の紋章は壊され、尖塔は倒された。家具や聖職者席、レガリア、聖遺物と聖遺物を収めるための聖遺物箱も破壊され、いばらの冠と十字架の破片だけが破壊を免れた。
19世紀はじめにはパレ・ド・ジュスティスの文書保管庫になり、棚を設置するために下から2m部分のステンドグラスが取り外され、そのほとんどがイギリスに売却された。
1835年以降、考古学者などから、教会の保存とあるべき姿に戻すべきだと復興運動が起こり修復することになった。1840年から28年の歳月をかけてサント・シャペルは中世の姿を取り戻すことが出来た。
ちなみに聖遺物はフランス革命期以降、ノートルダム大聖堂に保管されていたが、2019年、ノートルダム大聖堂は火災にあい、現在はルーブル美術館に保管されている。故にサント・シャペルは聖遺物を保管する場所としては200年以上機能していない。
住所:10 Bd du Palais, 75001 Paris, France
開館時間:9:00〜19:00(4月1日〜9月30日)、9:00〜17:00(10月1日〜3月31日)
休館日:1月1日、5月1日、12月25日
入場料:11.50ユーロ(18歳未満は無料)
コンシェルジュリー
パリ1区、シテ島のオルロージュ通り沿いに建つコンシェルジュリーは、10世紀から14世紀までは王宮として、14世紀以降は裁判所や牢獄として使用された建物である。
もともとは6世紀、パリに首都を移したフランス王クローヴィス1世がコンシェルジュリーがある場所に住居を構えたのがはじまり。10世紀、ユーグ・カペーによって要塞化された住居と王立評議会やパリ議会など行政の様々な部門が設置された。シャルル5世の治世下、王宮は放棄され王はサン・ポル宮、ルーヴル宮へ居を移した。しかし、裁判所やパリ議会はそのまま残り、王が不在の時に宮殿を管理監督する者としてコンシェルジュ(管理人)を任命。後にこれが建物全体の名前となった。
コンシェルジュリーの4つの塔は、北側に位置している。ボンベックの塔は塔の中で最も古く1250年、ルイ9世の時代に建てられた。塔の名前である”Bon Bec”は「話し上手」を意味し、恐怖政治時代、この塔の中にあった拷問室で、拷問を受けた囚人たちがいつも期待以上にたくさん言葉を発し自白したことに由来する。シーザーの塔はローマ時代の遺跡の上に建てられ、ユリウス・シーザーに敬意を評して名前がつけられた。フランス革命までは地下牢として使用された。銀の塔は、王家の宝物を保管。恐怖政治の時代には革命裁判所の検事フーキエ・タンヴィルの事務所として使用された。
時計塔は1350年から1353年にかけて建設され、高さ47mとコンシェルジュリーで最も新しく最も高い塔である。もともとは王宮の見張り台として建設されたが、1370年にシャルル5世の命で、パリで最初の公共時計を設置することとなった。現在の時計は1585年、アンリ3世の時代に作られたものでラテン語の碑文、王家のモノグラム、右側に「正義」、左側に「法」を象徴するアレゴリーで装飾されている。
碑文の内容:
上部:「QUI DEDIT ANTE DUAS TRIPLICEM DABIT ILLE CORONAM」
すでにふたつの冠を授かったものは、第三の冠を授かるであろう。
(ポーランド王で後にフランス王となったアンリ3世について言及)
下部:「MACHINA QUAE BIS SEX TAM JUSTE DIVIDIT HORAS, JUSTITIAM SERVARE MONET LEGESQUE TUERI」
時間を完全に等しい12時間に分割するこの機構は、正義を守り、法律を守るために役立つ。
この時計は、フランス革命の時に大きな被害を受け、オリジナルの鐘も溶けてしまった。1849年に時計職人のピエール・ルポートによって修復された。最近では、2012年に国立公文書館に保管されている古文書をもとに修復が行われ、元のきれいな姿に戻った。
1381年以降、改築工事によって牢獄が整備され、多くの政治犯が収容された。フランス革命時代、1793年、宮殿の1階に革命裁判所が設置、反革命容疑者法が施行され、革命から恐怖政治へと転じていくこととなる。
マリー・アントワネットやロベスピエールなど2年間で2700人以上が裁判にかけられた。「死の牢獄」「ギロチンの控えの間」と呼ばれたコンシェルジュリーは当時最も過酷な牢獄と言われ、狭くて不潔な独房に数百人の死刑囚が収容されていた。
マリー・アントワネットは、1793年8月2日から10月16日まで最後の2ヶ月半を過ごした。彼女は、国費の浪費、オーストリアへ国家機密漏洩、息子への性的虐待と言われもない罪を着せられ、見せしめのため死刑に処された。
王政復古の時代、ルイ18世の命により、彼女の独房跡地に礼拝堂が建てられた。
1862年に歴史的建造物に指定され、1914年、一部が一般に公開され、監獄が完全に閉鎖されたのは1934年のことだった。
住所:2 Boulevard du Palais, 75001 Paris, France
開館時間:9:30〜18:00
休館日:なし
入場料:大人11.50ユーロ(18歳未満は無料)
URL:https://www.paris-conciergerie.fr/en/
その他
ポン・ヌフ
ポン・ヌフは、シテ島の西端を通り、パリ1区とパリ6区を結ぶパリで最も古い石造りの橋です。最も古いのに新しい橋(ポン・ヌフ)の名前は、パリで最初に作られた石造りのアーチ橋に由来する。
1577年、アンリ3世は、セーヌ川の洪水で被害を受けたノートル・ダム橋とシャンジュ橋を補完するために新しい橋の建設を決めた。1578年、アンリ3世の母カトリーヌ・ド・メディシスと王妃ルイーズ・ド・ロレーヌが礎石を据え工事が始まった。1588年から1598年まで宗教戦争で中断したが、アンリ4世の命で1599年に工事を再開させ、1607年に完成した。
ポン・ヌフ以前のパリの橋は木造で橋の上には住宅や商店が軒を連ねていたが(ノートル・ダム橋は4階建て、シャンジュ橋は6階建てだった)、そのほとんどが崩壊した。例えば商店で火事が起こると橋まで焼け落ちてしまうからである。
ポン・ヌフは家屋を置かない石造りの橋として画期的だった。そして、馬車の水しぶきや泥から通行人を守るため、パリで最初に舗装されたのもここで、パリで最初の揚水機が設置されたのもここだった。ポンプで引き揚げられた水は主にルーヴル宮とチュイルリー宮殿とその庭に供給されていた。
公道に騎馬像が初めて置かれたのもここで、アンリ4世が暗殺された4年後、1614年に王妃マリー・ド・メディシスはポン・ヌフの中央にアンリ4世の騎馬像を建てさせた。しかし、フランス革命の時に取り壊され、現在の騎馬像は1818年に作成されたレプリカである。
全長238m、幅20.5m(車道11.5m、歩道はそれぞれ4.5m)、12個のアーチ、各橋脚の上には半円形のバルコニーがあり、橋の両側にはコーニスに沿って381個のマスカロンが飾られている。
半円形のバルコニーでは、商人や職人が店を開いた。有名な百貨店「サマリテーヌ」の創業者エルネスト・コニャックはここの露店から商売を始め、その稼ぎでセーヌ川右岸に小さな店を買い、現在の百貨店になるまで大きくなった。
マスカロンは古代神話の神々やギリシャ神話に登場するサテュロスを表している。マスカロンは古代より、悪霊から家や地域を守る役割を担っていた。現在はすべてレプリカに替えられており、オリジナルはカルナヴァレ博物館とクリュニー中世美術館で鑑賞することができる。
住所:Pont Neuf, 75001 Paris, France
アレクサンドル3世橋
アレクサンドル3世橋は、パリのセーヌ川に架かる橋でパリ7区と8区を結んでいる。1900年の万国博覧会にあわせてロシア皇帝ニコライ2世が建設し、フランスとロシアの同盟締結を記念してパリに寄贈したもの。
万国博覧会の会場であったセーヌ川右岸にあるグラン・パレやプチ・パレとセーヌ川左岸にあるアンヴァリッド広場を容易に移動できるようになった。
橋の名前は、1892年、露仏同盟を締結したロシア皇帝アレクサンドル3世にちなんで名付けられた。1896年、アレクサンドル3世の息子ニコライ2世と皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ、フランス大統領フェリックス・フォールによって礎石が据えられ工事が始まった。
残念ながらアレクサンドル3世は1894年に亡くなったため、この橋を見ることはなかった。
建設にあたりフランス政府は、シャンゼリゼ通りからアンヴァリッドの間の眺望を妨げず、また船舶の往来を妨げないように装飾的で平坦な橋でなければならないと指示していた。その課題をクリアするために橋の真ん中に中間支持部を持たない単一アーチ型の橋を作ることになった。
全長152m、幅40m、高さ6mの鋼鉄製の橋は、四隅に高さ17mの巨大な石柱を配置し、その台座部分にはフランスの歴史上の時代を表すアレゴリー(彫像)が置かれ、北側の柱には現代フランスとシャルルマーニュの時代のフランス、南側の柱にはルイ14世時代のフランスとルネサンス時代のフランスを表現している。
石柱の上にはペガサスを従える女神(ペーメー/ファーマ)の像が置かれ、それぞれ芸術、農業、闘争、戦争を表している。また石柱は橋を安定させるための重りの役割も担っている。
橋の中央部分、下流側にセーヌ川のニンフたちがパリの紋章を携え、上流側にはネヴァ川のニンフがロシア帝政の紋章を携えたブロンズ像が飾られ、32台のアール・ヌーヴォー様式の街灯は夜の橋を明るく照らし幻想的な雰囲気を演出している。
住所:Pont Alexandre III, 75008 Paris, France
登録基準
登録基準(ⅰ)
セーヌ河岸には、ノートル・ダム大聖堂やサント・シャペル、ルーヴル美術館、アンヴァリッド、コンコルド広場、エコール・ミリテール、パリ造幣局博物館、シャンゼリゼ大通りのグラン・パレ、エッフェル塔、シャイヨー宮など、中世から20世紀にかけて建てられた建築や都市の傑作が次々と点在している。
登録基準(ⅱ)
ノートル・ダム大聖堂やサント・シャペルなどセーヌ川沿いの建物はゴシック建築の普及の源となり、コンコルド広場やアンヴァリッドの展望台はヨーロッパの首都の都市開発に影響を及ぼした。また、オスマン・トルコの西側一体の都市計画は、新大陸、とっくにラテン・アメリカの大都市建設に影響を与えた。最後に、エッフェル塔、グラン・パレ、プチ・パレ、アレクサンドル3世橋、シャイヨー宮は、19世紀と20世紀に重要だった万国博覧会の生きた証である。
登録基準(ⅳ)
パリのセーヌ河岸にあるモニュメントや建築物、代表的な建物は、壮大な川の風景を背景に、約8世紀にわたって採用されてきた様式や装飾芸術、建築工法のほとんどが完璧に表現されている。
アクセス
Air France Airbus A319 / arunpnair
日本からパリまでは、エール・フランス、日本航空、全日空が直行便を運行している。所要時間は12時間40分。
ホテル
パリのホテル料金は4,000〜30,000円くらい。
・ホテル・アンティン・サン・グレゴワール
・ホテル・サン・ジョルジュ・ラファイエット
・オテル・メトロポール
・ラ・シャンブル・デュ・マレ
・マジェスティック・アパートメンツ・シャンゼリゼ
旅の予算
ツアー代金は、5〜8日間で75,000〜400,000円くらい。
個人旅行の場合
往復航空券
直行便:羽田→シャルル・ド・ゴール空港(12時間25分)/エール・フランス
=142,000円
乗継便:羽田→シャルル・ド・ゴール空港(17時間40分)/ ターキッシュ・エアラインズ
73,000円
宿泊代
4泊:10,000✕4=40,000円
現地ツアー代金
・モンサンミッシェル日帰りツアー 港町オンフルール訪問(111.76EUR〜)
・ベルサイユ宮殿 半日ツアー(62EUR〜)
・ムーランルージュ(Moulin Rouge) フレンチキャバレー ドリンクショー<現地集合・解散>(97EUR〜)
合計113,000〜214,000円(参考価格)